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公開日本国市民憲法(Open Constitution for Citizen of Japan)

趣意

今、日本は一人のファシストに私物化されている。この独裁者は、 自らの妄想を実現するために、通常法を無視し、憲法を機能不全に陥れた。 このような事態は、民主主義国家では、1933 年 1 月 30 日に、 ヒトラー率いる国家社会主義ドイツ労働者党が政権を奪取したドイツ以来初めてのことだ。 デマとプロパガンダによって国民を煽動し、暴力と威嚇で国民のあらゆる自由を奪う手法は、 今も昔も変らない。

独裁者は、北朝鮮のミサイルが撃たれる度に、国難を叫び、 国民の恐怖を煽り、それに呼応して軍備拡張し、軍事的緊張を高める。 国民は核爆弾登載のミサイルに怯え、 憲法を踏み外した戦時体制法案が次々と可決される。 2000 年の日本の歴史からすれば、 2000 万人の周辺国の民衆の命を断ち、310 万人の同胞を犠牲にした、 あの、太平洋戦争が終結して、まだ 70 年しか経っていないというのにだ。 それは、平和主義が、戦後 70 年という時間で風化されたのではなく、 我々が戦争を完全に放棄するという決意をしてこなかったからだ。 我々は終戦の時に立ち戻らねばならない。そして、 自らの命を賭けて戦争に反対する覚悟を思い起さねばならない。 憲法にはこの覚悟と決意を明確に残すべきであり、 これを我々の子孫に永遠に伝えねばならない。

ではなぜ、このような独裁が繰返されるのか? それは、民主主義には、 絶対多数を獲得すれば独裁国家となり得るという、 極めて明白な欠陥があるからだ。いとも簡単に、一つの政党が、 選挙で絶対安定多数の議席を取得できるのには、いくつかの理由があるが、 得票数と獲得議席が乖離した選挙制度と、低投票率がその最たるものだろう。 前者は、国会議員自らが自身に都合の良い制度に変更したものであり、 後者は、国民の無関心がもたらしたものだ。これらに対する歯止めは、 政治家や有権者の良識に委ねるべきではなく、憲法に明確に規定すべきである。 しかし、それでもなお民主的独裁国家への懸念は残る。一つは、 議員自身への懸念であり、もう一つは国民自身への懸念である。

国会議員は、たとえ正確に、 有権者の得票率に比例した代表として選出されたものとしても、 嘘と欺瞞によって公約など簡単に踏みにじる。 現憲法では、国民に正当に選出された者は、あたかも聖人のごとく扱われているが、 そもそも、不特定多数の代弁者など存在しないのだ。このような観点に立てば、 現行の憲法が規定する国会議員の特権は著しく不当なものであり、 これらは全て見直すべきである。

他方、そもそも、そのような議員を選出した国民が存在する。 我々は今、予定された社会に居る。病院で生まれ、5 才になれば小学校へ行き、 9 年間の義務教育と 7 年間の高等教育が予定されている。 そして、学校教育の期間に比例する所得が予定された職場に就職する。 それは、産業資本が求める人材を供給するためだ。このレールから落ちた者は、 基本的に無視される。本来であれば、大多数がドロップアウトするが、 驚くべきことに、我が国においてはドロップアウトする者の方が少数派なのだ。 ここで、「本来であれば」と言ったが、正確に言うと、 「本来、ちゃんとした市民であれば」ということだ。

我々は、国民である前に市民である。市民とは、本来、 身の回りのあらゆる社会的制度に対して、 批判的・主体的に関わる人間のことを言う。自分の子供が学校で何を学び、 それがどのような影響を与えるのか、駅前の区画整理は、 利用者にとって意味のあるものなのか、近くの病院の診療科は、 これで良いのか、そして何よりも、税金が正しく使われているのか。 現実は、学校では低学年から英会話を強要して数学や理科教育を優先し、 地方自治体は公共交通を廃止して車や高速鉄道を優先し、 病院は高額な保険料を徴収して高齢者や身障者を切り捨て、 政府はありとあらゆる手法で徴収した税金を、公共事業や抑止力という虚構で、 建設業者や軍需産業に垂れ流している。これらはいずれも、 市民であれば決して看過できないものだ。だが沖縄を除き、 これらに不満を言う者はいない。日本においては市民勢力は極めて限定的なのだ。 それは、歴史上一度も市民革命を経験したことがなく、かつ明治以来、 産業資本を第一義的なものとする国家を維持するために、 皇国史観を背景とする国家主義が事実上現在まで続いているからだ。 日本には市民革命が必要だ。だが、それにはおそらく、 今後途方もなく長い日々が必要だろう。今必要なのは、それまでに、 市民の基本的権利が失なわれるのを防ぐことと、我々自らが、 確固とした市民に成長するための手立てを作ることだ。すなわち、 現憲法で規定される基本的人権と平和主義を、 今後一切変更することのないような自己規定条文を新たに追加し、 政策の策定におけるあらゆる場面において、 市民が直接関わる市民委員会を、国家とは独立した機関として作ることだ。

仮に、ここで提起した制度が施行されたとしよう、そして、 市民委員会を経て策定された法案が、全て本当に市民のためのものになるのか? 答は否である。権力者は、 ありとあらゆる手法で市民の自由と権利を奪い取ろうとするものだ。それらは、 姑息なやり方で法案の中にちりばめられる。施行された法律が、 憲法に違反するとわかった場合に、 それを廃案にする司法という最後の砦が必要となる。現憲法下では、 違憲審判は最高裁判所で行なうとしている。しかし、今の最高裁判所は、 違憲審判を事実上放棄した廃審所と化している。それは、 総理大臣が最高裁長官の事実上の任命権を持ち、最高裁裁判官の国民審査を、 衆議院選挙と同時に済ませるという姑息な手法で国民の目をくらませることによって、 司法の独立を形骸化させたためだ。 違憲審査を公正に行なう憲法裁判所が必要だ。憲法裁判所は、 任意に選ばれた市民を加えた陪審制とし、憲法裁判所の裁判官は全て、 独立した選挙で国民が直接選ばなければならない。

ナチスは、政権掌握後、28 日で基本的人権を停止(緊急大統領令)、 52 日で国会を廃止(全権委任法)、165 日で政党政治を破棄(政党新設禁止法)、 549 日で完全独裁を合法化(国家元首に関する法律)させた。そして、 その 5 年 30 日後にポーランドに侵攻して第二次大戦を引き起こす。 日本のネオナチ政権は、基本的人権を事実上停止する目論見を盛り込んだ現憲法の改正案を、 堂々と掲げている。ファシスト達の考えることは同じだ。 現政権は、憲法を改正して基本的人権を事実上停止させた後、 国会を廃止に追い込むつもりだろう。時間はあまり残されていない。


公開市民憲法の会
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